episode.1
「僕が生まれたのは、あまり豊かではない小さな家でした。
そこで母と、一頭の牛に育てられました。
牛の名前は『ほーぷ』と言いました。
幼い僕はそれが何という意味なのか、考えたこともありませんでした。
ほーぷはとても強くたくましく、僕にとっては父のようで兄のようで、それでいて親友でした。
人間ではないけれど、それでも僕の親友でした。
母が何の仕事をしていたのかは、解りませんでした。
昼は家で寝て過ごし、夜になると煌びやかなドレスを着て出掛けて行きました。
いつ用意しているのかは分かりませんが、母は毎日ご飯を作ってくれました。
そのご飯というのは、ハンバーグやエビフライがプラスチックの容器に詰まったものでした。
パリパリ海苔の三角おにぎりや、3枚セットのサンドイッチだったこともありました。
それらが皆、少し冷たかったからなのか、たまに食べながら涙が出ることもありましたが、
そんな時は決まって牛小屋でご飯を食べました。
ほーぷが慰めてくれるから。
牛小屋の干草はとても暖かくて、その上で眠ると夢には母が出てきました。
夢の中の母は笑って僕を抱きしめてくれました。
毎日ご飯を作ってくれるあの母とは、少し違う気がしました。
やがて僕は成長し、小学校へ行くお金がなかったので、代わりに図書館へ通っていました。
そこでは国語や算数の勉強をするわけではなく、何となく気になった本を読んでいました。
ある春の日に手に取ったのは、牛に関する本でした。
僕は夢中でその本を読み、ほーぷは乳を出すことができるのだと知りました。
母にその話をすると、「ほーぷは乳の出ない不良品だ」と教わりました。
僕は「フリョウヒン」の意味が分からずほーぷに聞いてみると、彼は「もぅ」と一言鳴きました。
翌朝目が覚めると、枕元には冷たい牛乳瓶が置いてありました。
僕は何となく、ほーぷに気づかれないよう、部屋の中で牛乳を飲みました。
冷たいのが美味しいと思ったのは、久しぶりでした。
いつもは水道水ばかり飲んでいましたが、その日からはご飯と一緒に牛乳が置かれるようになりました。
牛乳を飲むと、口のまわりに白く牛乳の膜ができて、髭のようになるのに気づきました。
それを母に見せたところ、煙たがられたので、ほーぷに見せに行こうと思いましたが、やっぱりそれはやめました。
夏になると、牛小屋はとても臭くなります。
近所に人は住んでいないので、他人から迷惑がられることはありませんでしたが、母はその臭いが大嫌いでした。
母は、昼の寝る時間を減らし、毎日牛小屋を掃除しました。
次第に牛小屋は綺麗になり、やがては何もなくなりました。
もう僕の大好きな、暖かい干草はありません。
季節は秋になりました。
秋を知らせる強い風が吹き、小屋のすぐそこに錆びたバケツが転がってきました。
僕は少しだけ、そのバケツを使って乳搾りを試みました。
本で見たことを真似て、優しくほーぷの乳を搾りました。
でも母の言った通り、そこからは何も出てきません。
僕はバケツがいけないのだと思い、その日飲んだ牛乳の空き瓶を持ってきました。
すると一滴、ほんの一滴だけ、ほーぷの乳が出たのです。
その後はどんなに搾っても乳は出ませんでしたが、僕はほーぷの出したその一滴が、たまらなく嬉しかったのです。
僕はとても嬉しくて何度も飛び跳ねたけれど、ほーぷは何故か悲しそうな顔をしていました。
外に出て見てみようと小屋から出ると、遠くからトラックが近づいてくるのが見えました。
ほーぷはその音を聞いて怯えているようでした。
そのトラックは荷台の部分が檻になっていて、恐ろしい顔をした運転手たちは、ほーぷを檻へ閉じ込めました。
ほーぷは暴れませんでしたが、引きづられるように連れていかれました。
何が何だか分からず、僕は泣きました。
結局僕は涙を流すだけで何もできないまま、ほーぷはどこかへ連れて行かれました。
気づけば、母も一緒にその様子を見ていました。
母は泣いていました。
僕も母も泣いていました。
僕と母は、その日初めて一緒の布団で眠りました。
朝起きると、台所から美味しそうな匂いがしました。
こんなことは生まれて初めてだったので、僕はサンタクロースがやってきたのだと思いました。
「サンタクロース?」とおそるおそる台所を覗くと、そこにはエプロンをつけた母の姿がありました。
「今日はクリスマスじゃないでしょ」
それが、初めて見た母の笑顔でした。
小さなちゃぶ台には、トーストと目玉焼き、
それからウィンナーに湯気の出ているコーンポタージュがぎゅうぎゅうに並んでいました。
プラスチックケースのお弁当や三角おにぎりしか知らなかった僕は、何だかとても幸せな気持ちになりました。
玄関から、「すみません」と声がしました。
母の後について玄関へ行くと、ちょうど今の僕と同じ格好をした、中年の男の人がいました。
おじさんは、背負っていた大きく四角い、硬そうな箱を開けると、そこにはいくつかの牛乳瓶が入っていました。
1本だけ牛乳を買うと、そのおじさんはまた、笑顔でどこかへ行きました。
母は言いました。
「これはね、ほーぷからの贈り物。あの子が希望を届けてくれたんだわ」
僕にはその言葉の意味がよく分からなかったけれど、うん、と一言頷きました。
1本の牛乳は母とふたりで飲みました。
ふと思い立って、空の牛乳瓶を持って母を外に連れ出しました。
図書館へ向かう通り道に、菜の花畑があったのを思い出したのです。
菜の花畑に着くと、僕はいくつか花をちぎって、牛乳瓶に挿しました。
母は不思議そうな顔をしていましたが、「とにかく着いてきて」と、また家へ戻りました。
僕は水道から牛乳瓶へ水を汲んで、牛小屋の前へ置きました。
殺風景なこの家に、少しだけ色がつきました。
僕はこの花があればほーぷがいなくても寂しくないかと思いましたが、
隣にいた母は涙を流しながら手を合わせていました。
僕は前にも、こんな光景を見たことがあるような気がしました。
それはまだ、ほーぷがこの家に来る前のこと。
この牛小屋には小さな作業机と、いくつかの機械、それに木材が詰め込まれていました。
とても幼い頃なのでほとんど記憶にありませんが、そこにはいつも人がいたような気がします。
けれどある日突然大きな音がして、どこからか車が来てまたどこかへ行くと、人の気配は消えました。
今思えば、その車は緑のような、黒のような、なんとも言えない色をした、不思議な形の車でした。
僕は母の背中でそれを見送ると、今日のように菜の花畑に花を摘みに行き、こうして小屋の前へ供え、
母は涙し合掌していた気がします。
車に乗せられた1人と1匹は、いつか帰ってくるのでしょうか。
気になって母に聞こうとしましたが、やっぱり聞けませんでした。
それから今日、世界が終わるこの日になっても、あの小屋は空っぽのままでした。
でも、ほーぷがいなくなった日から、母は夜に煌びやかなドレスを着て出かけることがなくなったので、
僕は少し嬉しかったのです。
今、僕はとうとう1人ぼっちになってしまったけれど、こうして君たちに思い出話をしている。
何故だかとてもすっきりしました。ありがとう」
牛乳屋さんは話し終えると、そっと少女の髪と子犬の背中を撫でました。
その表情は話す前よりも、わずかに柔らかくなっていました。
「どうして牛乳屋さんは牛乳屋さんになったの?」と、少女は聞きました。
「僕が物心ついてから、初めて『美味しい』と感じたもの。
それは、牛乳瓶に入った冷たい牛乳だったんだ。
だから、たくさんの子供たち、大人たちに牛乳の美味しさを知って欲しかった。
・・・いや、それは建前なのかも知れない。
本当は、ほーぷのことが忘れられないだけなんだ」
そう言うと、牛乳屋さんは背負っていた大きな箱を開けました。
中にはたくさんの牛乳瓶。
1本どうぞ、と少女に渡す。
「これを背負っていると、今でもほーぷが近くにいるような気がして」
少女は牛乳を一口飲むと、言いました。
「この牛乳、とってもとっても美味しい。
だから世界が終わったら、私の代わりにほーぷに教えてあげてね。
美味しいって」
牛乳屋さんは、少し驚いたような顔をしました。
「君は、世界が終わることの意味を分かっているのかい?」
少女は少しむっとして、「分かってるよ、それくらい」と言いました。