episode.1
確かそれは、クリスマスの前夜の出来事だったと思う。
病弱で両親から嫌われていた僕は、プレゼントも期待しないままいつも通りの夜を過ごしていた。
いつも通り、大きすぎる寝巻きを着て、大きすぎるベッドに寝転がり、小さな窓から少しだけ見える星を眺める。
そうしていると、いつの間にか朝になっていた。
夜は少し憂鬱な気分になる。次の日になれば学校に行く訳でもなく、習い事に行く訳でもない。
ベッドの上で一日中過ごすことの繰り返しなのに、それでも朝日が昇るのは辛かった。
ただ、その日見た幻だったか、現実だったか――とにかく妙な体験をしたその時間だけは幸せで、
時を忘れてしまいそうだった。
目の前を、一瞬影が通り過ぎたような気がした。
小さかったか、大きかったか。本当に一瞬だったのでよく分からなかったが、
その影は空を舞っていたような気がする。体を起こして窓の外を見てみるが、やはりそこには何もいない。
気の所為だったのかとまた体を元に戻そうとすると、後ろから肩を叩かれた。
僕は幽霊なんてものは信じないし、存在していたとしても関わる気は全く無い。
でも、だからといって恐怖心や好奇心がないかと聞かれれば別だった。
少しだけ体を強張らせながら、顔を後ろに振り向かせる。まるで、よくあるホラー映画のコマーシャルのように。
肩に置かれた手、健康的な色をした腕、緑色の服、首にかかる程度の茶髪、緑の三角帽子に赤い羽。
そこにいたのは、紛れも無く『ピーター・パン』だった。
「君が、今この街で一番可哀想な顔をしている」
彼は白い歯を見せ、眩しいくらいの笑顔でそう言った。
「ピーター・パン?」
「何だ、自分の名前も忘れちまったっていうのか?」
「君は、ピーター・パンなの?」
「当たり前だろ!ここ以外、どこにこの僕がいるっていうんだ。ほら、妖精ティンクだってここに!」
小さな三角帽子を頭から外すと、中から金色に輝く小さな妖精が出てきた。
息苦しかったのか、顔を真っ赤にしてピーターを睨みつけている。
しかしピーター自身はそんなティンクに目もくれず、笑顔で話し続けた。
「さぁソラ、今からサンタクロースに会いにいこう!」
自分の名前を呼ばれて、やっと目を覚ました。
「どうして、どうして僕の名前を知っているの?」
「そんなの常識だよ。僕だってティンクだって、ネバーランドのみんなだって知ってるさ」
生まれてから一歩も外に出たことのない僕は、他人が自分のことを知っているという事実が不思議で、不気味で。
何度も「何故?」と聞き返したが、ピーターはやがて面倒くさそうな顔をして、
「何となくソラって気がしたんだ」と誤魔化した。
妖精の粉をふりかけられ、宙に浮けるようになった僕は、
少しだけバランスをとる練習をして初めて外の世界を見た。
「ねぇピーター、サンタクロースにはどこに行ったら会えるの?」
「そんな事も知らないのか?」
「だって、サンタクロースなんて最初から存在しないじゃないか。
僕はいつも夜空を眺めているけれど、空飛ぶソリなんて見たことない」
今思えば、どうしてあんな事を言ってしまったんだろう。
僕の言葉を聞いたピーターはものすごい剣幕で怒鳴り始めた。
「サンタクロースは存在するんだ」「信じないやつはみんな大人だ」「僕の大嫌いな大人だ」ってね。
でもね、散々怒った後に、無言で僕の手を引きベッドに戻すと、ものすごく悲しそうな顔をしたんだ。
「ソラは、ネバーランドがどこにあるか知っているか?」
「右から二番目の星でしょう?」
「そう。ネバーランドは存在する、ここに僕がいる限り。でも、『二番目の星』っていうのは嘘なんだ。」
「嘘?」
「適当に、それらしいことを言ってみただけ。本当はもっと近くてもっと遠くの、別の場所にあるんだ」
「・・・・・・・・・」
「サンタクロースは、右から三番目の星にいる」
それから後の記憶はなくて、気づくと朝になっていた。
僕はね、あれから三十年経った今になってやっと気づいたんだ。
彼は・・・ピーターは、夢も希望も無くした僕の顔を見て「この街で一番可哀想な顔」だと言った。
その通りだったと思う。
だからこそ、「子供の夢」であるサンタクロースの存在を、僕と一緒に確かめに行きたかったんだろう。
けれどもう、遅かった。たった十歳の少年だったあの頃の僕の心は、もう立派な大人になっていたんだ。
ごめんよピーター、君を絶望させてしまって。